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  • 執筆者の写真soma

無知は煩悩の親玉ではあるけれど

発言や発信すること


人と直接会うことが


当面憚られる世の中になり


ネットを使用することが


更に日常の中の大きな時間を占めるようになりました


水瓶座時代の到来に当たり前でしょ


という流れの中


降ってわいたような


大きな大きな時代の変化のスピードに


即対応するには


それなりの骨太さが必要です


プラス


現実社会は


家から出ることができないという制限なのに


ネット社会では


大きな大きな世界を駆け回ることができる自由


体は拘束されているかのような不自由さなのに


誰でももっている


スマホからの自由度の高さという大きなギャップ


これこそがギャップ萌えだよねと言える


柔軟性があればいいのですが


大多数がこの


強さとしなやかさを装備するには


もう少し準備が必要なのでしょう


人の意見はそれはそれでいいし


色んな生き方もあっていいんじゃない



思えるようになるには


まだまだ時間がかかるのだと思います



 

発言や発信すること


2007年からブログを書いている私も


発信者枠に入るのかもしれません


確かに


『なんでブログなんて書くの?


ネット上に色々書くなんて恥ずかしくないの?


しかも自分のことも書くなんて


信じられない』


と言われたことは確かにあります


でも


強い主義主張があるわけでなく


どちらかというと書きたいから書くという


マーケティング的には0点という自覚はあっての発信です


それでも


ここにきて


生徒さんですら読まない笑


このブログへのアクセスが増えていることに


驚いています



読むにしろ


聞くしにろ


見るにしろ


ネットでの発信や発言に


注目が集まっていることに実感です



 

発言や発信すること



読まれた方も多いのではないでしょうか


発信するということ


というタイトルのこの文章は


書き手の熱量がありありと感じられ


その想いに心は動き


感情が動くから感動なのだと


無表情だった私の心が変化しました


その中で


無知について書かれています


ぜひぜひおすすめです


読んでみてください


 

無知


ヨガでは


サマディへの障害として無知があります


無知とは


決して知識がないとか


物事を知らないということではありません


自分に対する無知です


自分をよく知らないからエゴが生まれ


そのエゴを満たすように


快楽へ執着が生まれ


誰にも奪われたくないその執着を


奪われてしまったかと思う相手に憎しみが生まれ


苦しくなる


この苦しさの根っこである


煩悩を薄めていこうとするのがヨガの実践です


何に対する無知なのか


この無知の説明は


ヨーガスートラの2章3からありますが


この2章3の一部のみ切り取ってしまうと


知らないことが悪だと捉え


知らないということをさげすみ


知らない人と知っている自分に格差をつけ


上下を作ってしまうのでしょう


だからこそ


ヨガは


体系的に学び


自分が実践しないと


知っていると自負している人から


コントロールされ搾取される事件に発展したのです


知らないことは


あって当たり前


それを


知ろうとするかしないかはあなた次第で


それもあなたが選択できること


その選択も自由


その自由を放棄したら


身体だけの拘束ではなく


心までの拘束となり


私たちは監獄の中で飼い慣らされていることになるのかもしれません



 

収まる収まらないに関わらず


目に見えている身体がどんな状況であれ


心の自由度は自分次第


ネットもヨガもあくまでもツールであり


その自由度は自分なんですよね


それに


全てを知ってから発信しよう!


ちゃんと勉強してから発言しよう!


としたら


今生じゃできないな・・・




とは言え


ヨガ


でお仕事をいただいているので


裏付けのないこと


間違ったことは発信できないので


そのあたりはね♡




難しく考えず


強さとしなやかさを得て


自分を知る手段のひとつ


ヨガをいっしょに楽しみましょう



※参考文献

写真の本たち♡



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