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  • 執筆者の写真soma

幸福か不幸か 二極の選択は自分


オサレナ町ギロッポン

でも

そこでの友人との会話は

怪しげでありがながら泥臭さを感じる

私にとってはタマラナイ

内容でした

とってもおいしいイタリアンとインド哲学

この二つを一緒に堪能できるのは

私達だからこそだと思います(笑)

久しぶりに刺激的な夜だったので

そこでのお話からの

気づきをおすそ分け

興味のない方いっぱいなんだろうな・・・(笑)

ふとね

あれアタシなんの為に生きてきたのかなあ

誰にも感謝されずに

寂しい

不幸だ

このまま無かったものと抹消されてしまうかもしれない恐怖を

感じたことある方

もし良かったら 少しだけこのブログ記事ご賞味下さい

友人が

口にしたのは

苫米地英人先生の本を読んでいなければ

なかなか聞きなれない言葉

抽象度

ご存じですか?

これ先生の造語

Levels of Abstructionを訳してできた言葉が

抽象度なのだそうです

これは

例えば ネコという言葉よりも 動物という言葉のほうが抽象度が高い

鈴虫 → バッタ目コオロギ科 → 昆虫 → 生物 →人間と同じ生きとし生けるもの

こんな感じでしょうかね

抽象⇔具象

そう より具体的ではない

つまり

もっと俯瞰の概念

この抽象度の高い思考で人生を見ることができるかできないかで

幸福度は異なっていくのではないのかという話をしました

よく

ヨガをすること

人生を歩むことを

山のぼりに例えることがあります

私達は自分の人生の山を登っています

この山登りに必要なものはなんでしょうか

登山をするので

服装や装備品

コンパスに地図 食料品も必要です

懐中電灯があったほうが安心かもしれません

もちろん目的地も

他に何が必要なのでしょうか

それは

準備万端にしたところで

今いる場所

今の自分の居場所

今ここがわからなければ

どこをどう登っていけばいいのかさっぱりわからないのです

身体を使って呼吸を通し 自分と向き合うことで

今ここをヨガで知り

頂上を目指して

踏み出すことができる

迷わずに道を歩める道具のひとつがヨガ

その道具であるヨガにも

色んな種類があるように

登っていく道も人それぞれ

その人が歩きやすい道を

色んな種類から自身が選択して登っていけばいい

そして

夜道で暗くなったときは

師匠という灯りが道を照らしてくれるのでしょう

二股の分かれ道に突き当ったら

聖典というガイドブックから

ヒントがもらえるのでしょう

そうやって少しずつ

自分の足で歩いていけばそれでいい

そう私自身も思っています

ただ

この山を登っていると

本来は頂上まで登っていこうとしていたはずなのに

途中の見晴のいい場所までとりあえず登ろうと

そもそもの頂上を忘れ

途中の目的地に到達したところで

よしとする

というか

いつも間にかそこが頂上だと思い込み

前に進まない

そこしか見えない

だから

そこから 先があるのに

ないと思い込み

進まない

実際

進まないのは

自分の足で歩かないのは

楽だから

その楽にかまけて

なんで私の山はこんな低いところが頂上なの

皆はあんなに高いところまで登っているのに

私だけ この低い山が もう頂上だなん可哀そう

この場所にいる私のことなんて誰もかまってくれない

存在自体 忘れ去られている

私だけ

不幸な山を登ってしまった

そもそもの頂上を忘れているのは自分であるのに

その山自体を恨んで

その場所にとどまる

いやいや

本来の目的

もっと抽象度をあげてみてみよう

最初は違ったよね

色んな角度から見てみよう

時にはそのサングラスをはずして見てみよう

登っていく道はあるし

色眼鏡で見ていたから見えにくくなっていただけかもしれない

もしくは

そのメガネがたまたま曇っていたのかも

メガネをはずして 磨いてみるのもひとつの方法かも

ただね

その磨くということ

どうやって磨けばいいかに固執してしまうと

本末転倒

その場所でただ磨くだけで終わってしまう可能性もある

ちょっとだけ

視点を上に向けてみる

そうすると

自分よりも高いところを登っている人が見えて

昇る方法を教えてくれるかもしれないし

その背中を見ることで

のぼっていく道のヒントが見えるかもしれない

多少 急な坂でも

登っていこうとする勇気をもらえるだけでも

シメタもの

急ぐことはなく

休憩しながら

少しずつ登っていく

その高い視点で 見ようとするかしないかが

抽象度の高さなんだと思うんです

私自身も

人生という大きな山を登っていたのにもかかわらず

いつしか

ヨガという道を使って歩いていた

この道具そのものを目指してしまって

迷う事いまだにあります

インドでヨガの勉強をするという

途中のただの通過点を

頂上だと勘違いしてしまって

そこまでたどり着いたら

燃え尽きてしまい

何もかもが嫌になってしまった

何か勝手に達成してしまったと思い込み

もう自分は

社会に入らない存在なんだと闇の中を歩いたこともあります

だから

今 あなたがあなたの山を登っていて

もう私には先がないとか

もう私は役目がないとか

何を生きがいにしたらいいのかわからないと思っていても

大丈夫です

ちょっとだけ

目線を上にして 視界を広げてみてください

まだまだ

ありますよ

道はたくさんありますし

他人の為に昇ることを止め

自分の為に昇ろうと思った瞬間から楽しくなることだってあるんです

なんだか

相反してますよね

目の前のことにただ集中して今ここを感じろと

言ったと思えば

視点をもっと俯瞰にしてみてごらん

どっちなん?

はっきり答えを出してよ

おっしゃるかもしれません

この

相反することをひとつにツナグのが

まさにヨガであり

その相反することをツナグ体験を自分で実践して

内側から何かしらの

答え

気づきを自分自身で得るのが

これまた

ヨガなのであります

高く高くというと

意識高い系がすごいとか

想いがちですが

そこの低い高いだったり

人と比較して決めるものでもありません

抽象度をあげて 生きてますか?

こうやって

オサレナ場所で

おいしいイタリアンと

いっけん面倒臭いこじらせインド哲学を楽しむ

相反すること

二極の対立がない

まさに平等の境地

これぞ ヨーガに専心だと幸福感に満ち溢れているのであります

結論

ヨガでなんでやねん

どっちやねんを楽しもう

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